塩田千春インスタレーション@森美術館
行ってみたい!と思っていた六本木ヒルズの森美術館の塩田千春展、東京滞在中に行ける!と思い前売り券を準備して出かける。
久々に本当の芸術家らしい狂気を観た。
まずは、足を踏み入れた瞬間にどうやってどのくらいの時間をかけて、どんな様相でこの糸を編んでいったんだ?と制作の様子を想像するだけで気が遠くなり、少し怖くなる。
糸は赤と黒。それぞれに意味がある。その意味は解説を読まずともなんとなく感じることができる。
ドイツにずっと住んでるという影響もあるのかな。
奥に奥に奥に暗い感じ。
特に映像を観ると狂気の沙汰がものすごく伝わってくる。
私と同世代だというのがまた鬼気迫ってくる。
自分の中の多感な時期、私にも自分に狂気を感じる時期が確かにあった。
絶望の引き金は15歳の時に起きたチェルノブイリ原発とその後の政府の対応、それに無関心な日本人と同級生や家族を見てからだ。
なにも変わらないし、なにも学ばない、進化していく世の中で自分が扱えないくらい未知のモノや概念が出てきた時に、イメージができず事なかれに流れるだけではなく、みなのその付和雷同が、世の中を混沌とさせている、自分の意志がないことの「悪」を感じない、その状態が連れて行く未来にひどく恐怖を感じ世の中に圧倒的な距離を感じて気が遠くなった。
自分の力の大きさ(変化できる・世の中を変えることができる)を誰も信じていないこの周りの世の中で、私はだんだんと内に籠もっていき、全てが信じられなくて最終的には食べ物が信じられなくなって、なにも受け付けなくなっていく。
体重が30キロ台まで行った時、このままでは機能が低下していくよう身の危険を感じて、細胞中が震えた時(本能が生きたいと願った?)
全てに絶望して弱りきった死に近い側から生(未来)を観た。
「過去の遺産を嘆くのではなく、未来に向かって善く生きよう」と自分の指針が決まった。
これからは人間と心の勉強をしよう、と決意して哲学・思想史・比較文化・美術史を学ぶコースのある大学を探したのは、高校1年生の時だ。
たしかにあの多感な時期は何かを決めて、何か拠り所がないと精神状態が不安定だった。
誰にでもそのような個人的な体験があるのかもしれない。
忘れていた、忘れていないと現実に対応できなかったそんな今の自分を、幽体離脱した自分に観られているような時空がわからなくなるようなズレているような不思議な感覚になった。
塩田千春さんの作品を観た人の多くの人が震えている。
もし、自分があの時芸術側が近いところにいれば、長い歳月をかけてここまで突き詰めた狂気の状態になっていた可能性もあることを考えると、人生の選択の紙一重さにも震える。
私は、それから生に向かって駆け抜けた。
今では「善・悪の二元論に陥っていた自分が若かった」こともわかる。
その二極構図はあの頃の攻撃性の高い、傷つけ傷つきやすい自分を思い起こさせて直感的に好まなくなってしまった。
塩田千春さんから感じる、芸術活動をしないと生きていけないくらい、死の方面から生を見ているような死生観が凄い。
そして自分の中の狂気の部分、仄暗い部分を思い起こさせる、呆然として震える、なんと形容していいいのかわからないような、圧倒的なインスタレーション。
糸を使ったインスタレーションもすごいけど、糸を縫い付けられた絵の方は私もたしかに世界がこんな風に見えてたことあった…、と思わせる既視感とえぐられる感じがありました。
10月まで森美術館で開催
*塩田千春展(click!)
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